『日々挑戦・日々感動』 第8回 社会の宝
昨年の8月、札幌に住んでいる小・中学校の同級生に、私の書いた雑文を送ったら『保護司 T A 語録』という冊子を送ってくれました。これは45年8ヶ月にわたって、更生保護事業にたずさわってきた彼の功績を讃え、また今後の事業推進に役立てようと、保護司会が企画し、冊子にまとめたものでした。保護司会仲間からの質問に、彼が応えるといった形で書き進められたようです。冊子を読み、彼の生き方に強い感銘を受けました。とても私の真似の出来ることではないが、素晴らしい内容なので、彼の功績を冊子から抜粋し紹介します。
彼が福祉の大学で学んでいた時、講義は受けたことはないが、何故か後ろをついて歩きたくなるような、オーラを発している先生がいらっしゃったそうです。ゼミ担当の教授にその旨を話したら「ああ、彼は保護司だからなあ」と言う言葉が返ってきた。この言葉を聞き「何時の日か、私も保護司になれるような人物になりたい」と強く決意したという。
就職して、兵庫県の児童相談所で、一時保護の子供達相手の仕事をしていた26歳の時、北海道で舗装会社を起こしたお兄さんから、自分の会社を手伝って欲しいと強く請われた。“福祉活動”もさせて貰うという条件で、奥さんと一緒に北海道に渡った。奥さんも福祉の仕事をしていたようある。
仕事の傍ら、北海道で最初にはじめたボランテアは、視力障害者のために朗読奉仕活動であり、29才の時、若い7人の仲間と盲導犬事業を立ち上げ、会長に推されました。事業を進めるには、指導員の確保、育成。犬の購入、飼育及び健康管理、それに視力障害者が訓練受けるための施設の確保、等で莫大な費用がかる。
当時、会社は第一日曜日だけが休日だったそうです。毎月、その日が来ると、当然のことのように、乳児を背負った奥さん(その姿は年月の経過と共に、幼児の手を引き背中に乳児、そして、終いには3人の子供も加わり)ボランテア仲間と、デパートの前等で募金活動を続けました。月に一度の休日を、目の不自由な人達を助けるために、家族総出で活動するのは、相当の信念や決意がないと出来ることではないと思います。
彼は「ボランテア活動は趣味」と公言しています。困っている施設や団体に、多額の寄付をした奇特な人の話が、よくニュースで報道されますが、彼のボランテアは、自分の労力を提供しての福祉ボランテアです。人間への愛情が内に溢れ、奉仕精神の旺盛な彼の心には「助けを求めている人の声が、強く響いてくるのだろうか」と思った。
保護司の仕事は、30歳の時、自ら手を上げて引き受けたという。犯罪を犯した人の、更生を支援する保護司は、非常勤の公務員ですが、業務遂行に必要な費用以外は支給されず、ホランテア活動のようです。当然、資格として経済的、時間的な余裕がある上に、熱意と社会的な信望が求められます。45年8ヶ月という長きにわたり、保護司活動を続け平成23年、『瑞宝双光章』の叙勲も受け、現在は更生保護協会の副理事長を務めている。
またこの間に、3人を更生させることが出来たそうです。自分の子供3人を含めて、後の世に、つごう6人の後継者を育てることができ、日本人として最低限の務めを果たした、と謙虚に語っている。この6人は、彼の薫陶を受けた育てられた人達である。私は、それぞれが自分の持ち場で、なくてならない存在として活躍するだろうと思っている。
公務員から従業員総数8名という零細企業への転身ですから、大変なことも多かったようです。しかし、行動力、奉仕精神ともに旺盛で、また「人格を磨き、自身を高めたい」という意識が強いから、人柄が謙虚です。それに保護司ですから、相手の気持ちを理解する訓練も受けています。
これなら見る人が見れば、直ぐに分ります。勉強のためにと、JC(青年会議所)に入ったら、北海道の視察に訪れた『常陸宮両殿下』の随行責任者に任命されて、2日間お供をしたそうです。また経営者協会では、宴席で隣合わせたことが縁で、大きな仕事が成立し、さらには企業団地町内会の、会長会社の指名を受け、業界内の評価が一気に高まったようです。
会社は、それぞれ育成した後継社長に経営を一任し、グループ4社の総責任者として全体を統率してきましたが、新年度から相談役に退いています。彼は、企業経営にも社会貢献の姿勢を貫き、社内にあっては、正しい税知識を身に付け、適法・適切な経営に務め『優良申告法人』として税務署から表敬訪問も受けました。現在では北海道唯一の団体『優申会』の会員でもあり理事も務めています。
札幌商工会議所では、2号議員として活躍し、平成22年には、社会貢献特別委員会委員長に就任した。この時の課題の一つが、商工会議所が発案し長年の懸案であった、札幌に桜の名所を作るという事業の具体化です。「小金湯さくらの森」は、何十年、何百年と続くであろう、札幌の新な名所作りです。市民の憩いの場にすると同時に、観光客の誘致にも継げようという夢のある計画です。市民に愛され、市民参加の「さくらの森」にするために、桜の苗木は、一口1万円で市民からの協力を仰ぐことになりました。「目標額は1千万円」です。彼は「募金協力会実行委員長」も兼務してのスタートになりました。
意義ある事業だとしても、市民に募金をお願いするのは、辛さの伴う仕事です。このような多くの人達の協力を仰ぐ仕事は、トップが率先垂範で先頭に立ち、熱意と人柄で、人の心を動かせる人が理想だと思います。彼は、更生保護協会の募金集めでもダントツで、仲間の会員から羨ましがられているようです。それというのは、彼が賛助会費の集金に行くと「来訪を待ち受け、昼食をご馳走して下さったり、帰りには、お土産を持たせてくれる方もいる」というのです。辛さの伴う募金集めを、楽しみながらやっている感じです。そこで、このような関係が作られている背景を想像してみた。まずは、彼の更生保護事業に対する熱意である。と同時に労力の奉仕だけでなく、彼は金銭面でも誰よりも多く寄付しているのだと思う。それを知っているから、多くの人がせめて一口でもと協力しているのだと思った。
「小金湯さくらの森募金協力会」は正によきトップを得て、多方面からの協力により、募金の最終金額は2281万円にも達しました。また市民の「さくらに森」に対する熱い期待は、札幌市をも動かし、12.2ヘクタールの土地に桜800本、もみじ200本余りが植えられ、当初は計画に無かったビジターセンターの建設も追加、総工費8億超が投入された。「寄付者の芳名版」やモニュメント「さくらの鐘」の設置、さらにはライオンズクラブからの時計の寄贈等もあり「小金湯さくらの森」は、開園を待つばかりになった。
しかし、最後に難問が残ってしまいました。交通量の多い国道230号線への公園の出入口に、信号機が無いため極めて危険な事です。市の担当部署が、道警本部へお願いしたところ「法律上、住宅や事業所があって、人の出入りが無い限り道路ではない」との一点張りで、何度お願いしても信号機設置の認可がおりません。市民の安全を守るためだと説明しても、聞く耳を持ちません。結局、開通を1年遅らせる事になってしまったのです。道警としては、事情は理解できるとしても、要望が権限を越えており、認可するには、困難な手続きや責任が伴うから、そのような対応が日常化しているのだろと思った。しかし、お願いする側からすれば、腹の立つ話しである。
このままでは開園出来ない。彼は 最後の手段として、知人で親しい札幌警察官友の会会長(彼は幹事)で、元札幌更生保護協会理事長にご同行願い、道警本部へ乗り込んだ様です。道警本部長の英断で、平成27年10月4日「年内施工、来春の公園オープン時稼働」との連絡を受け取った。「小金湯さくらの森」開園に向けての、商工会議所としての仕事を全てなし終え、彼は10月末に、22年間の商工会議所の議員生活を終えた。(現在は、商工会議所の名誉議員)平成28年4月29日、札幌市民の大きな期待と夢を背負って「小金湯さくらの森」はオープンしました。
『保護司 T A 語録』は、保護司会の人達から発案され、保護司会が作成したものである。彼の功績や人柄を一番よく知っているだけに、何等かの形で記録に残し、一人でも多くの人に彼の偉業を知って貰いたいという気持ちもあったのだろうと思った。しかし、保護司としての具体的な活動は、守秘義務であるから、保護司会としても、彼の人柄や活躍を紹介するのに苦心したことと思う。
また、保護司会の企画なので、もう一つのボランテア、7人で立ち上げた盲導犬事業に関してはあまり触れられていない。そこで彼に聞いてみた。昭和45年に設立した「札幌盲導犬協会」は、現在、職員数21名+パート9名で、設立以来538ユニットが誕生し活躍しているそうです。盲導犬協会でも『ボランテア T A 語録』を企画したら、もっと彼の人間性がわかる冊子が出来るだろうと思った。
私は『保護司 T A 語録』を手にして、初めて彼の功績を詳しく知ることができた。尊敬し同級生として誇りに思い、彼は“社会の宝”だと思った。「小金湯さくらの森」の桜は、まだ幼木だと思うが、札幌市民のために、北海道のためにと1本1本に同級生の「夢」と「情熱」が込められている桜である。いつの日か、桜の咲く頃に「小金湯さくらの森」で同級生の有志で花見を楽しみながら、彼の数々の功績を讃えたいものと思っている。