コラム

「私の戦争体験 温かな卵」

 

皆さん、こんにちは。さて、あっという間にもう9月です。今年の夏は、新聞やテレビでの「戦争」に関する報道が例年より多かったように感じました。高齢になった戦争体験者が、なんとしても伝えておきたいという思いで語ってくださったからだと聞きました。
一日一信の会員の中にも、同じような強い思いで書き綴っている人がいます。今日はそれをご紹介したいと思います。

 

昭和18年前後、戦争がだんだん厳しくなって、東京ではときおり警戒警報が鳴った。小学校は地方のお寺へ集団疎開することが多かった。
私は小学校3年の終わり頃、家族と離れてただ一人、埼玉県大宮の農家の離れで暮らす伯母の元に預けられた。東京の本郷に住んでいた伯母は、小さい子を二人連れて先に疎開していたのだ。その頃、父は飛行機の整備とかで九州の指宿におり、母は病弱な姉と2歳の妹を抱えて蒲田の家に残った。
疎開の直前、母は銀座の伊東屋でピンクの二段の筆箱や24色のクレパスなどを買って、持たせてくれた。
「この戦争で家族が全滅しても、あなたは生き残って、戦争のこと、家族のことを伝えていくのですよ」と言って。

 

疎開先では地元の子どもたちに「東京っ子、疎開っ子」といじめられた。テストの点がよいと、机の中にトカゲを入れられる。母が作ってくれたきれいな小物入れの袋や、筆箱もクレパスもみな、学校帰りにお寺の裏で取られてしまった。10歳に満たない私でも「死にたい」と考えたこともあったが、「お母さんと生きることを約束したんだ」と何度も思い直した。

 

ある朝、登校しようとしていたら、お隣の農家で飼っている鶏が、こちらの垣根の破れた所から入ってきて、私の目の前で〝ポトリッ〟と大きな卵を産んで帰っていった。「あら大変! おばちゃん、この卵、お隣に返しに行かなくちゃ」
卵は温かった。お彼岸に母が作ってくれたきな粉おはぎのような匂いがした。
「いいのよ。竹の子だって垣根超えてこちらにきたのは、食べていいの。よしみちゃんが学校から帰るまでに茹でておいてあげるからね」授業が終わると一目散に家に帰った。「坊たちが遊びにいっているから、今のうちにゆっくり食べなさい」
従弟は私より年下の1年生と5歳の男の子で、私のことをお姉ちゃんと言って仲良くしてくれる。涙が出るほどのうれしさと、従弟たちへの申し訳なさで、胸がいっぱいになった。
70年以上たった今でも、卵を見ると当時のことを思い出す。

 

 切ないお話ですね。この続きはまたこの次に。

 

研修担当者の皆様へ

「どのような研修を企画すれば、自分たちの組織のためになるのか」
「どのような研修を実施すれば、受講者が満足するのか」
研修担当の皆様は、日々、このようなお悩みを抱えていることと存じます。
私どもが目指すのは、受講者はもちろんのこと、ご担当者にも満足していただける研修です。
「総合教育に頼んでよかった」
そう言っていただけるよう、ご担当の方と協力しながら取り組んでいきたいと考えております。